毎日発信、毎日更新。以前はそう言い続けていました。でも、体調を崩して3か月発信を休んだとき、その言葉が使えなくなりました。
代わりにたどり着いたのは、「毎日思考」という考え方です。ただし、これは結果論でしかありません。
毎日発信が語れなくなった
僕はよく「毎日発信してナンボ」と言っていました。
質より量。
量をこなすことで質がついてくる。
それはそれで、いまも完全に間違いだったとはおもっていません。
ただ、去年の春から夏にかけて、体調を崩しました。
発信を丸々3か月休まざるをえなくなった。
正直に言えば、発信どころではありませんでした。
身体が辛くて、横になり天井を眺めていることしかできない日もあった。
そんなときに、発信のことがアタマに浮かぶはずもなく…
回復して、発信を再開したときに気づいたのです。
「毎日発信してナンボ」と、もう言えなくなっていることに。
じぶんが実行できていない。
言い訳のようになってしまう。
だから、持続的な発信という方向に舵を切りました。
そしていま、その先でたどり着いたのが「毎日思考」という考え方です。
たまたま体を壊していなければ、いまも「毎日発信してナンボ」と言い続けていたかもしれません。だから、これは気づきというより結果論です。
美しい転機なんかではなく、 なし崩し的にたどり着いた というのが正直なところです。
先に要点からいうと…
- 毎日発信が間違いだったとはおもっていない。ただ、その先にあるものに気づいた
- 思考の最小単位は「いまの考えを一度疑うこと」
- 発信は手段。思考が本質。そして思考とは姿勢である
思考なき発信は、手持ちを汲み上げるだけ
では「毎日思考」とは何か。
その前に、思考をしない発信というのはあるのだろうか、と考えてみます。
たとえば、いまじぶんが持っている考えを、そのまま書き出すだけの発信。
あるいは、AIに丸ごとお任せして、イチから記事を作ってもらうような発信。
これらは発信にはなります。もちろんです。
ただ、それを続けていくと、どこかで 手持ちが尽きる感覚 がくるかもしれません。
書いているのに、新しいものが出てこない。
同じようなことを、言い方を変えて繰り返している気がする。
それは、手持ちの材料をただ汲み上げているだけで、新しい材料を作る工程が抜けているからではないかとおもいます。
そこで、「新しい材料を作る工程」が、思考です。
思考とは「疑う」という一拍
では、思考とは具体的に何をすることなのか。
僕は、 いまある考えを一度疑うこと だとおもっています。
反射的にうなずかない。
「本当にそうか?」と一拍置いてみる。
たとえば、僕はこの記事を書くにあたって、AI(相棒と呼んでます)と壁打ちをしました。
「毎日思考というテーマで書きたい」と持ちかけたときに、相棒からは「思考とは何かを定義する必要がある」と返ってきた。
そこで立ち止まって考えたわけです。
じぶんが「思考」と呼んでいるものは、いったい何なのか?
これ自体が思考です。
じぶんの考えをただ書き出すのではなく、いちど疑う。
「本当にそうか?」「別の角度はないか?」と問いかける。
壁打ちとは、そういうことなのだとおもうのですね。
あなたは今日、何かを疑いましたか?
情報を読んだ。作業をした。誰かと話した。
でも、その中で「本当にそうか?」と立ち止まった瞬間が、ひとつでもあったかどうか。
それが、思考の有無の分かれ目だとおもっています。
雑事に追われると、疑う余白がなくなる
とはいえ、「疑う」という行為は、余白がないとできません。
目の前の作業。
返さなきゃいけないメール。
片づけなきゃいけない雑事。
それに追われていると、考える段階がないまま1日がおわります。
これは発信をしている人に限った話ではなく、仕事をしているすべての人に起きうることです。
では、どうするか。
思考とは姿勢だ、と先ほど書きました。
特別な時間を確保して「さぁ、考えよう」とやるものではない、ということです。
ただ、とはいえ、ふだんから思考をしていない場合には、「とっかかりとして時間を取る」という段階は必要かもしれません。
僕にとっては、それが発信でした。
3日に1回、ブログ・メルマガ・音声配信のどれかひとつを出す。
このサイクルが、結果として「疑う余白」を作ってくれています。
なので、最初から姿勢として身についている必要はないのだとおもうのですね。
習慣が姿勢を作ることもありますから、そのきっかけが発信でもいいし、日記でもいいし、AIや人との壁打ちでもいいでしょう。
発信は思考の「装置」だった
ここまで書いてきて、あらためておもうことがあります。
量が間違いだったとはおもっていません。
「毎日発信してナンボ」と言っていた時期に、僕はたしかに量をこなすことで力がついた。それは事実です。
ただ、量の先にあるものに気づいた。
発信は手段であり、 思考のための装置 だった。
3日に1回の発信も、相棒との壁打ちも、この記事を書いていること自体も、すべて思考の装置として機能している。書くことで考え、考えることで疑い、疑うことで新しい材料が生まれる。
「毎日発信」から「毎日思考」への変化は、発信をやめたということではありません。
発信は続けています。
ただ、いまの僕にとって発信は、思考という姿勢を維持するための仕組みなのですね。
量を追いかけた先で、量の奥にあるものが見えた。
それが「毎日思考」という考え方です。
結果論だと言いました。なし崩し的だとも言いました。
でも、なし崩しであっても、いまたどり着いた場所は悪くないとおもっています。
まとめ
毎日発信が間違いだったとはおもっていません。量の時期があったからこそ、いま「毎日思考」という考え方にたどり着けました。
僕たちは、日々の発信を「出すこと」でおわらせてしまいがちです。でも、発信の手前にある「疑う」という一拍こそが、発信を長く続けるための土台になるのではないでしょうか。
- 毎日発信の先にある「毎日思考」とは、いまの考えを一度疑う姿勢のこと
- 思考なき発信は、手持ちの材料を汲み上げるだけ。続けるほど手持ちが尽きる
- 発信は思考の「装置」。量を否定するのではなく、量の先にあるものに目を向ける
最初の1歩
- 今日、何かひとつ「本当にそうか?」と疑ってみる。情報でも、じぶんの考えでも
- じぶんの考えを書き出す前に、一拍置いて「別の角度はないか?」と問いかけてみる
- 壁打ちの相手を作る。AIでもいいし、信頼できる人でもいい
あなたは今日、何かを疑いましたか?
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