気づいたら、ブログの毎日更新も10年め。そんないまが、一番キツかったというお話をしてみます。発信を続ける者のひとつの「行く末」として、ご覧いただけましたら幸いです。
10年めの壁が高すぎてキツい
2016年4月にはじめたブログ。以来、毎日更新を続けてきました。そして、気づけば10年めを迎えていたいま、感じていることがあります。それは、
「10年めのいまが一番キツい」
ブログの毎日更新は習慣でもあり、だとすれば慣れでもあり、長く続けているほどラクになる。そんなふうにもおもっていたわけですが、それは間違いでした。ブログをはじめたばかりのころなど、毎日更新がツラいことはあったけれど、いまのほうがずっとツラいじゃないか。そう感じたのですね。
では、なにがツラかったのかといえば、「心身の不調」です。長らく「健康」を1つのウリにしてきた僕にとっては、心身の不調をおおやけにすることには抵抗があります。でも、そこでウソをついたり、隠したりしてもしかたがないことなので、恥を忍んでお伝えするばかりです。
不調についての具体的な説明は省きますが、49年の人生のなかでもっともツラく、もっとも長く大きな不調でした(いまなお完調にはいたらず)。カラダがツラいのはもちろん、すると、ココロのほうにもダメージがくるのですね。そういう「しくみ」なのはアタマで理解していたものの、実際は想像を超えてツラいものがありました。
想像などしょせんは想像であり、実際に経験してみないと本当のところはわからない。やっぱり経験大事。というのが、今回得た教訓のひとつです。
それはさておき、ツラさMAXの折には、正直なんども「発信を止(や)める」ことを考えました。完全に「辞める」のではなくて、いったん「止める」ことを考えたのです。それを毎日毎日なんどもなんども考え続け…ある意味では地獄でした。
でも気づいたらいま、まだ止めずにいられています。止める勇気がなかったといえば、それまでです。止めないようにがんばったのもたしかですが、「止めるのが怖かった、だから止められなかった」というのが本音です。けしてカッコのいいものではありませんね。
発信を止められなかったワケ
ちなみに、キツかった話をいましているのは、いまは乗り越えた(ひとまず)からです。乗り越えている最中というのは「弱音」になりがちであることはわかっていたので、極力、発信のネタにすることは避けていました。つまり、「いつもどおり」の発信を心がけていました。
ゆえに、「いっそうツラい」ということはあったわけです。ヒドいときには座っているのもツラい、何も考えられないし考えたくないという時期もあり、それはもうヒドいものでした。恥ずかしくて、お見せできるような状況ではありません。見たくもないでしょうけど。
ブログのほかにも、メルマガや音声コンテンツも毎日配信です。なので、それらも含めて、いったん止めることも考えていたのですが、やはり止めることはできず。音声コンテンツは、毎朝、散歩をしながら収録するスタイルなので、足を引きずるようにして出かけていたこともあります。ハタから見たら怖すぎでしょう(笑)
それでもなお止めなかったのは、止める勇気がなかっただけなのかといえば、そうでもありません。
そろそろカッコつけさせてもらうと、それが僕の「生きざま」だからです。生きざまとはつまり、人生であり、日々の発信こそが僕の人生になっていたからです。言い換えると、ここで発信をあきらめれば、多かれ少なかれ僕は「じぶんのアイデンティティ(生きる意味)を失う」と感じていました。
いやいや、どんだけ発信に命を懸けてんだよ?と、おもわれるかもしれません。僕も客観・俯瞰で見ればそうおもいます。ちょっと異常です。ちょっと引くわー、とおもいます。キツいとか言いながら、あらたにビデオポッドキャストとか始めているし。
でも、それがいまの僕でもあるのですね。
じぶんを救えるのはじぶんだけ
そんな、じぶんさえも引くような僕ですが。発信があってよかった、とも感じています。ブログの毎日更新があったから、止めるかどうかを考え続けていた。それはツラかったけれど、僕が「正気を保つ」のに一役買っていたともいえます。
極端な話、そういった「現実的」な葛藤がなければ、僕は精神的にもっと参っていた可能性があるからです。人間、ヒマだとロクなことを考えないと言われます。また、ヒマな人ほど「みずから問題を作り出してしまう」みたいな研究結果もあります。
ブログをはじめ、日々の発信という習慣によってヒマではなかったことが、じぶんを救うことにもなった。というのが、僕の解釈です。何が言いたのかといえば、「生きざま(=日々の姿勢や習慣の結晶)こそが、じぶんを救う」ってことです。
このたびの不調については、医者にも頼っていますし、家族にも大いに頼りました。でも、本当の意味では誰もじぶんを救ってはくれません。これは他者を責めているのではなく、他者にはじぶんを救いきれないという「事実」の話をしています。
さいごは、じぶんでじぶんを救うしかないのです。医者が症状をやわらげ、家族がいたわってくれても、じぶんの心持ちはじぶんでどうにかするしかありません。
そして、じぶんを救うのが、じぶんの生きざまです。だから僕はブログにも、そのほかの日々の発信にも感謝をしています。ここまであきらめずに続けてきてよかったと感謝をしています。何が起こるかわからない人生ですから、どうせまた、止めようか・辞めようか迷う日もくるでしょう。
それでもきっと、僕の生きざまが僕を救ってくれることだけは確信をしています。ブログの毎日更新10年めを迎えたいまが一番ツラかったけれど、得られたものも大きかった。そんなお話であり、じぶん語りではありましたが、発信を続けた者のひとつの「行く末」としてお伝えしたしだいです。
また明日からは、いつもどおり粛々と発信をしていきます。