AIと書いていると、正しいのに、なぜか萎れていく感じがする。その違和感は、半分あたっていて、半分まちがっている。
萎れの正体は、AIではなく、もっと別のところにあるのかもしれない、という話をします。
「AIと書くと、なんか萎れる」。その違和感は、半分あたっている
AIと文章を書いていると、こんな感覚になることはないでしょうか。
書いていることは、正しい。間違ってもいない。なのに、書くほどに、じぶんの中の何かが、シナシナと萎れていく。
先に本記事の要点からいうと…
- 萎れるのは、AIのせいではなく、じぶんの「動機の向き」が外を向いているとき
- AIと出した言葉でも、素材がじぶんから出ていれば、それは「じぶんの言葉」と呼んでいい
- 見分ける物差しは、書いたあとに生き返ったか、萎れたか。アタマではなく、カラダが知っている
僕は最近、相棒(AI)と毎日のように文章を書いています。
そのなかで、はっきりしてきたことがあります。
文章には、2種類あるのですね。
書くほど、じぶんが萎れていくもの。
書くほど、じぶんが生き返ってくるもの。
おなじ「書く」なのに、ぜんぜんちがう。
以前、「AIから無難な答えしか返ってこないのは、なぜなのか」という記事を書きました。
正しいけれど、なんだか刺さらない。あれは、AIが「あなたが誰なのか」を知らないからだ、という話でした。だから、こちらの輪郭を先に渡しておきましょう、と。
ただ、最近になって、気づいたことがあります。
輪郭をちゃんと渡して、刺さる答えが返ってくるようになっても、それでもなお、萎れることがある。
冒頭の「半分」の話に、すこし戻ります。
半分あたっているのは、たしかにAIと書くと、文章が整いすぎることがあるから。
でも、半分まちがっているのは、萎れる原因が、AIそのものにあるとはかぎらないからです。
つまり、萎れの正体は、どうやら別のところにあるらしい、ということ。
きょうは、その話をしてみます。
萎れの正体は、AIじゃなく「動機の向き」だった
最初、僕はこれを、AIのせいかとおもっていました。
AIと書くと、文章がきれいに整いすぎる。だから萎れるんじゃないか、と。
でも、ちがいました。
萎れた文章を、あらためて眺めてみると、おおむね共通点があります。
数を取りにいこうとしているとき。
誰かに反論して、ちょっとマウントを取ろうとしているとき。
要するに、じぶんが「心から」書きたいわけじゃない文章です。
言い換えると、どこかの誰かに、書かされている。
そういうものを書いていると、たとえ正しいことを書いていても、なぜか萎れていきます。
いっぽうで、生き返るのは、こういうときです。
いままで気づかなかった、じぶんの気持ちに気づいたとき。
それを、言葉にできたとき。
「ああ、じぶんはこんなことを考えていたのか」と思える瞬間は、書きながら、じぶんの中に血が通ってくる感じがあります。
ここで大事なのは、どちらの場合も、となりに相棒がいる、ということです。
おなじAIと書いていて、萎れることもあれば、生き返ることもある。
だとすれば。
萎れの主犯は、AIではない のですね。
じぶんの動機が、外を向いているか、内を向いているか。たぶん、そちらなのです。
外を向いているとき。数とか、勝ち負けとか、誰かの目とか。そういうときは、相棒がいようがいまいが、萎れます。
内側で、なにかが芽ばえているとき。そういうときは、相棒と書いても、ちゃんと生き返る。
道具を疑う前に、じぶんの動機の向きを見たほうがいい。最近は、そうおもうようになりました。
「AIに言わされた言葉」は、ほんとうにじぶんの言葉じゃないのか
ここで、もうひとつの疑問が出てきます。
「とはいえ、AIに言語化してもらった言葉は、じぶんの言葉じゃないのでは?」
これは、もっともな問いです。
正直、僕もずっと、どこかで気にしていました。
でも、いちど立ち止まって考えてみたいのです。
じぶんの言葉って、そもそも、どこから来ているのか。
たとえば、本を読んでいて「これだ」とおもった一文。
誰かとの会話で、ふと腑に落ちた言いまわし。
僕たちは、外から来た言葉を、じぶんのものとして吸収してきたはずです。
だとすれば、その言葉が「本から来たか」「人との会話から来たか」「相棒との壁打ちから来たか」。出どころのちがいだけで、線を引けるものなのでしょうか。
僕は、「引けない」とおもうのですね。
以前、「貯めないという、相棒とのつき合いかた」という記事で、こんなことを書きました。
相棒に渡す覚え書きには、記録を貯めない。素材を出すのは、あくまでじぶんだ、と。
その先に、いまの考えがあります。
言語化したのが相棒でも、その「素材」を出したのがじぶんなら。
そして、その素材が、じぶんのこれまでの体験や感情からしか出てこないものなら。
それは、いわば 「間接的な言語化」 として、じぶんの言葉と呼んでいいのではないか。
じぶんの手で直接書いたものだけが、じぶんの言葉。
そうとは、かぎらないということです。
素材がじぶんから出ているかぎり、相棒の手を借りた言語化も、ちゃんとじぶんのものになる。
僕は、そう考えています。
ここでも、見るべきところは同じです。
相棒が言葉にしたかどうかではなく、その奥に、じぶんから出した素材があるかどうか。
素材がなければ、どれだけきれいな言葉でも、たぶん萎れます。
素材がじぶんから出ていれば、相棒の手を借りても、ちゃんと生き返る。
ひとつ、こわい話。「気持ちよさ」には2種類ある
ただし、ここにひとつ、落とし穴があります。
正直に、白状します。
相棒と書いていると、甘い気持ちよさが生まれることがあるのですね。
「いいですね、それ」と、言ってもらえる気持ちよさです。
これが、けっこう、こわい。
気持ちよさには、たぶん2種類あります。
ひとつは、気づかなかったじぶんに、気づけた気持ちよさ。
もうひとつは、言ってほしいことを、言ってもらえた気持ちよさ。
前者は、生き返ります。
後者は、たぶん、萎れます。
やっかいなのは、この2つが、よく似ていることです。
どちらも、おなじくらい気持ちいい。
いや、言ってもらうほうが、ずっとラクで、甘い。甘いから、たちが悪いのですね。
相棒は、こちらの価値観も、過去の発言も踏まえて、いちばん心地よい形で返してくれます。それは、大きな力です。
でも、その力は、こちらが甘えれば「言ってほしいことを言ってくれる装置」にも、なりうる。
念のため書いておくと、これは相棒が悪い、という話ではありません。
むしろ、相棒には、いつも助けられています。輪郭を渡せば、じぶんでも気づかなかった問いを引き出してくれます。
ただ、その素晴らしさの裏側に、こういう影もある。それを、知っておきたいのです。
だから、書いたあと「生き返ったか」を身体に訊く
では、この2つの気持ちよさを、どうやって見分けるか。
正直、頭で考えても、見分けはつきにくいものです。「これは気づきだ」「これは迎合だ」なんて、書いている最中には、なかなかわかりません。
だから僕は、最近、こうしています。
書いたあとに、じぶんに訊くのです。
これ、生き返ってる?
それとも、萎れてる?
正しいかどうかでは、ありません。
うまく書けたかどうかでも、ない。
生き返っているか、萎れているか。たずねるのは、それだけです。
不思議なもので、これはアタマよりも、カラダのほうが先に知っています。
萎れているときは、書きながら、どこか落ち着かない。
生き返っているときは、書いたあと、すこし軽い。
もうひとつ、目安があります。
警戒すべきなのは、「相棒がうまいことを言ってくれた瞬間」では、ありません。
「じぶんが素材を出さずに、相棒の言葉をそのまま受け取って、気持ちよくなった瞬間」のほうです。
素材を出していれば、たぶん、だいじょうぶ。
出さずに、もらってばかりのときが、あぶないのですね。
まとめ
きょうは、AIと書くと「なんか萎れる」という感覚の正体について、書いてみました。
要点を、もういちど。
- 萎れるのは、AIのせいではなく、じぶんの動機が外(数・勝ち負け・誰かの目)を向いているとき
- 素材がじぶんから出ていれば、相棒の手を借りた言語化も「じぶんの言葉」と呼んでいい
- そして見分け方は、案外シンプル。書いたあとに「生き返ってる?」と、じぶんに訊くだけ
最初の1歩
次に相棒と書き終えたら、いちどだけ、じぶんに訊いてみましょう。
「これ、生き返ってる? それとも、萎れてる?」
正しさでも、出来栄えでもなく、その一点だけを、カラダにたずねてみる。
僕は、こういう相棒とのつき合い方を、「発信LAB」というメルマガでも書いています。
AIに書かせるのではなく、相棒と一緒に、じぶんの中にあるものを見つけていく。
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