発信を続けていると、「これ、他の人も書いているよな」と感じることがあります。
実は、僕がずっと言っている「借りられるときに借りたほうがいい」も、僕のオリジナルではありません。それでも、書く意味はどこにあるのか。
情報を詰め込む教材を、つくらなかった
今回は、発信を続けている方に向けて書いてみます。じぶんの主張が、他の人とかぶってしまう。そんなときの話です。
先に本記事の要点からいうと…
- 主張そのものは、たいてい他の人とかぶる
- 根拠を足すと、同じ主張にも、その人なりの輪郭が出る
- 体験まで書ければ、その人にしか書けない文章になる
はじめて教材をつくったのは、今年のことでした。
きっかけは、じぶんが情報を追いかけている発信者の方が、教材を出していたことです。
「そういえば、僕はつくったことがないな」
そのくらいの入口でした。
ところが、いざはじめようとして、最初に立ち止まりました。
何を教材にするか、です。
情報を詰め込む、という道もありました。たとえば、銀行融資の制度のこと、しくみのこと、注意点。そういうものを集めて、体系立てて並べる。それでも、教材の形にはなります。
でも、そちらは選びませんでした。
かわりに考えたのは、こういうことです。じぶんが言っていることを、他の人が実際にやってみるには、どうしたらいいのか。
そこから行き着いたのが、じぶんの体験と経験のなかから、型を抜き出すことでした。
僕自身、実務のなかで迷いが少なくなってきたのは、じぶんなりの形を築いてきたからです。だとすれば、渡すべきなのは、その形のほうだろう。そう考えて、型として教材にまとめました。
情報を詰め込むこともできた。でも、選ばなかった。
この判断が、あとになって、じぶんの発信そのものに返ってくることになります。
気づいたら、ブログのほうも変わっていた
教材をつくりおえて、しばらくしてからのことです。
じぶんのブログを読み返していて、あれ、とおもいました。
書き方が、変わっている。
以前は、情報や知識を軸に置いて書いていました。制度はこうなっている、しくみはこうだ、というふうに。
それが、いつのまにか、じぶんの型や考え方、指針のほうを軸にするようになっていた。情報は、それを支える側に回っています。
意識して切り替えたつもりは、ありませんでした。教材のときに「情報じゃないほうを選ぼう」と決めて、その勢いでブログも変えた、というわけでもない。
ただ、教材でいちどそちらを選んだあとに、同じ判断がじぶんの書くものにも移っていた。そういうことなのだとおもいます。
念のために書いておくと、情報を書かなくなったわけではありません。ブログでもYouTubeでも、制度やしくみの話はふつうに書いています。書かないと、そもそも伝わらないですし。
変わったのは、置き場所です。
では、なぜ、そんな判断ができたのか。理由は、もっと前にありました。
みんな、同じことを言っている
教材よりも、ブログの書き方よりも、ずっと前のことです。
じぶんの周辺の発信を、まじめに読み込んでいた時期がありました。
同業の税理士。融資関連のコンサルタント。実務系のブロガーの方々。なんとなくの流し見ではなく、じぶんの発信の参考にしようという読み方です。
なんだかんだで1日20〜30本は読んでいたとおもいます。
しばらく続けていると、妙なことが起きてきました。
見出しを見た時点で、次に何が書いてあるか、だいたい読めてしまうのです。
要約してみても、抽象化してみても、言っていることはそんなに変わらない。みんな同じことを言っている。そこまで言うと乱暴かもしれませんが、感覚としては、それに近いものでした。
なぜ、そうなるのか。
情報の土台が、みんな同じだからです。制度もしくみも、ポイントも注意点も。だれがまとめても、そんなに変わりようがない。同じ材料を使えば、似た料理になります。
そして、ここからが本題なのですが、じぶんもまた、例外ではないのですね。
僕がずっと言っている「借りられるときに借りたほうがいい」も、僕が考えたことではありません。同じことを言っている人は、たくさんいます。
似ていることに、書いている本人は、案外気づけない。
ちなみに、いまはそれほど読んでいません。情報を集めるだけなら、相棒(AI)に手伝ってもらえるようになったからです。
情報だけを並べた発信なら、たぶん、いまはAIでも書けてしまう 。
そういう時代に、僕らは書いています。では、そのなかで、なにが残るのか。
残るのは、根拠と体験
主張がかぶるのなら、なにを足せばいいのか。
まず浮かぶのは、根拠です。
なぜ、そう考えるのか。「借りられるときに借りたほうがいい」と言う人はたくさんいますが、「なぜ、そう言えるのか」をひとつずつ言葉にしている人は、そこまで多くありません。ここを埋めていくだけでも、同じ主張が別の輪郭を持ちはじめます。
ただ、根拠は積もうとおもえば積めるものでもあります。時間をかければ、近いところまでは行けるのでしょう。
もっと大きいのは、そのあとです。
体験。
どんな出来事を通じて、そう考えるようになったのか。そのとき、なにが起きて、じぶんは何を感じたのか。
これは、その人にしか起きていません。
同じ「借りられるときに借りたほうがいい」でも、目の前で資金繰りに詰まった社長を見たあとに言うのと、本で読んで言うのとでは、言葉の重さが変わります。読む側にも、たぶん伝わってしまう。
しかも体験には、感情がくっついています。あのとき、悔しかった。怖かった。ほっとした。その感情まで含めて書けたとき、言葉はその人のものになるのだとおもいます。
根拠は、同じ主張に、その人なりの輪郭を与える。
体験は、その言葉を、その人にしか書けないものにする。
主張はかぶる。でも、体験は、かぶらない 。
ただ、これできれいに話がおわるわけでもありません。
そこに、人間性まで乗ってくる
もうひとつ、乗ってくるものがあります。
人間性です。
世間でよく言われる「何を言うかより、誰が言うか」という話ですね。同じ言葉でも、だれが言うかで届き方が変わってしまう。
その「誰」の中身には、さきほどの根拠と体験も含まれます。ただ、それだけではありません。
ふだん、その人が何を言っているか。どんな行動をしているか。そういうものが書かれた文章の外側から、じわじわと乗ってきます。
さらに言えば、じぶんではどうにも動かしにくい部分も、正直あるとおもいます。ここは深追いしませんが、思い当たる方もいるのではないでしょうか。
こう書くと、身も蓋もない話に聞こえるかもしれません。
実際、そういう面はあります。正しいことを書けば届く、というほど、発信は公平ではない。少なくとも、僕はそう感じています。
でも、だからこそ。じぶんで動かせるところに、力を使いたいと考えています。
発信が、発信するものを磨いていく
動かしやすいのは、やはり根拠と体験です。
根拠のほうは、書きながら足していけます。「こう考えています」で止めずに、「なぜなら」を一段だけ足す。それだけでも、記事の輪郭は変わってきます。
問題は、体験のほうです。
体験は、机の前だけでは増えません。
だから僕は、こう考えるようにしています。体験をできるだけ増やして、その体験を、発信を通じて言語化する。
まずは、外に出ることです。相談を受ける。現場に行く。やったことのないことを、やってみる。ここを止めると、書くものがだんだん薄くなっていきます。
でも、それだけでは足りません。
体験は、しただけでは、じぶんのものになりません。書いてみて、はじめて「ああ、じぶんはあのとき、こう感じていたのか」とわかることがけっこうあります。
つまり、発信することが、発信するものを磨いている 。
体験して、書く。書くから、体験の意味がわかる。わかったぶんだけ、次に書けるものが変わる。
そういう循環のなかにいるのだと、いまはおもっています。
まとめ
今回は、主張がかぶってしまうときに、じぶんに何が残るのかを書いてきました。
要点を、3つにまとめておきます。
- 情報の土台はみんな同じ。だから、主張そのものは、たいていかぶる
- 根拠を足すと、同じ主張にも、その人なりの輪郭が出る
- 体験まで書ければ、その人にしか書けない文章になる
最初の1歩
次の一本を書くとき、じぶんの主張のあとに、「なぜ、そう考えるのか」と「どんな出来事から、そう考えるようになったのか」を1行ずつ足してみる。
たった2行です。でも、そこから先は、もう他の人には書けない文章になっていきます。
僕は、こういう「じぶんの体験から、じぶんの言葉をつくる」という発信のかたちを、無料メルマガ 『発信LAB』 でも、続けて書いています。
主張がかぶっても、書けるものは残る。そんな話を、これからも続けていきます。よかったら、のぞいてみてください。

